「プロの洗礼」とは

ルーキーのピッチャーがめためたに打たれることなどを比喩的に「プロの洗礼を浴びる」という。

いつもなにげなしに通過しているこの表現をふと立ち止まって考えてみた。

考えた結論をさきに言えば、これはキリスト教的な洗礼ではない。

(ここからは実際の洗礼と異なる場合には「洗礼」と括弧付けにする)

この場合、ピッチャーが知るのは打たれる苦しみであり、

それまで知らなかったプロフェッショナルの世界である。

これには痛みがともなうのだ。

キリスト教的な洗礼は、入信者の体を水に浸したり、頭部から水をかけるという、

水を媒介にしたものである。

その洗礼形態においては、痛みはなじまない概念である。

苦しみが伴い、なおかつそれが新生への扉となる意味での洗礼。

それはすなわちユダヤ的な割礼(包皮切除)に似ている。




以前にも書いたが、ユダヤ教の割礼の儀式は男子のみに執行されるものである。

生後8日の男子の陰茎の包皮を切除するのだ。

そこで血を流すということが神との契約にむすびつくのである。

同時に、神との契約によってユダヤ教徒としての道が眼前に開かれる。

この血をささげるという行為が、この場合の「プロの洗礼」に通じる。

生後間もなく自己意思に基づかない割礼は、一種の強制性を表象するものであり、

これがピッチャーが受動的に打撃をうけるというイメージともつながる。

そして「プロの洗礼」という苦しみを味わうことが、

プロ野球選手としての経験に必要なことと諒解されており、

同時に、それがプロの成員と見なされる条件の一つという点が、

このユダヤ教の割礼と重なって見えはしないだろうか。

加えて、男性のプレイヤーが活躍するという野球の肖像が、

男子にのみ割礼が執行される図式と合致するのである。




ちなみに包皮切除は女子においてもおこなわれる場合がある。

ニューギニアやオーストラリアなどの先住民族、もしくは古代エジプトにおいて、

女子の陰核(つまりクリトリス)の周りの皮膚、しばしばそれに加えて陰核そのものを、

切除することがあった(出典『ブリタニカ百科事典 1965年度版』より)。

この場合も同様に、それにより血を流すことに宗教的・儀式的な意図がある。

「プロの洗礼」という表現が女性選手に使われることもまたありえる。




また、割礼はユダヤ教の専売特許ではないので、

この「洗礼」の着想点をユダヤ教一身に帰することができるわけではない。

しかし、痛みを伴うことで集団の成員と見なされる形での洗礼であるから、

「洗礼」がユダヤ教や民族的慣習などにおける割礼と同義であるとはいえる。

割礼そのものがキリスト教の水を使用する洗礼よりも歴史が長いことも挙げておくと、

古代エジプトでの割礼の慣習は紀元前4000年にまで遡るといわれ、

確認されているものでは、紀元前2600年頃の壁画に割礼の儀式が描かれている。

肢体を押さえられた少年に神官が包皮切除を施している絵である。

古代エジプトでは割礼そのものは神に奉仕するという観点から、

神官階級の間で多く執行されていたようである(出典同じ)。




ピッチャーが打たれることと、割礼の儀式。

一見関連がない二者はその根底において共有する脈がある。

だが、それは痛みを知ることであるが、受難とは異なる。

前者は儀式的・契約的側面を有するのに対して、

後者はそもそも磔(はりつけ)になったキリストを意味するからである。

受難とはキリスト教の観念にであり、そこにはユダヤ的信仰は介在しない。

しかもキリスト教においても、受難と洗礼は直接的関係にない概念で、

受難がキリストの試練を意味し、洗礼は入信者への儀式を意味する。

受難は苦難であるが、その一方で洗礼は苦しみを示唆しない。




「プロの洗礼」は非キリスト教的な意味での、

しかも割礼における苦しみを比喩的に取り込む意思が底流にあって、

使用されている表現なのである。