古本屋めぐり

最近熱中していることは、古本屋を回って本を蒐集することだ。

本のジャンルは政治学、社会科学、一部の文学等々、それほど幅広くない。

何か特定の本を探すわけでもなく、あちこちのお店を巡る。

地元では大体7軒ほどのお決まりの店をたずねる。

これが神田の古本街の場合は、欠かさずチェックする書店が13軒ほどある。

200軒ほどの古書店があるといわれる彼の地区であるが、

私が興味を持って見る場所は一割に満たないのだ。

その13軒中2つ、体を横にしてカニ歩きをしなければ入れない店があるが、

その間口よりも私の知的関心は狭い。




一昨日おとずれた地元の古書店は、よくシリーズ物や全集の揃い組みを安く買うところだ。

安い本ばかりいつも眺めるので店主に顔を覚えられていたようで、

今回は入り口近くにあった揃い組みの『思想の歴史』をすすめられた。

昭和40年代に平凡社から出版された全12巻のシリーズである。

実はそのうちの二冊はすでにもっているのだ、

そう主人に告げたところ200円値引きしてくれた。

それに手元に残すのは中途半端だから、と主人は全巻をゆずってくれた。

とてもやさしい店主である。

むしろ、それで採算はとれているのだろうかと心配してしまった。

あの店がつぶれると私も困るので、そういう心遣いもまた、ときに不安を呼ぶ。




ところで、残念ながら、この『思想の歴史』シリーズはおもしろくない。

ひらがなが多いのに内容が難解である。

どんなに読んでも不思議と頭に入ってこない文章だ。

私の頭が悪いからか。

買ったことをちょっと後悔した。




そのような徒労とも言える積み重ねで、

私の部屋の図書館化計画はちゃくちゃくと進行している。

きっと床が抜けるか、中途で火事が起きて本がすべて焼失するということがない限り、

この計画は無限に続くことだろう。




無限、すなわち結局終わりなどないというかもしれない。

それは知的関心が無限に継続する、と形容するよりは、

放たれた物体の運動がえんえんと続くことに近似である。

つまり力の発動は投てき点でのみ認められ、あとは惰性が物体の一切を支配するのだ。

それはもはや積極的な力ではない。

いま本棚に目をやると、そこには『思想の歴史』の第5巻『ルネサンスの人間像』と第7巻『市民社会の成立』が二冊ずつある。

それをじっとながめて、結局何も考えない。

本を手に取り、表紙をしきりに眺め、なんの思索もおこなわない。

もしかすると私の知性は惰性のなかに徐々に埋没しつつあるのかもしれない。




惰性の終末は、物体の自然な静止か、その停止だ。

まだ勢いがある惰性、まだスピードは死んでいない惰性。

本を積極的に集めることに意欲を燃やすことの下に、

もしそういった真実の姿が隠されていたとしたら。

それはおそろしい深層心理である。

いわばそれは本当の意味での知的好奇心ではない。

発端の力も持続の力も、おしなべて同様であればよし。

むしろそうでないと勉強でも一定以上のところより上には行けない。

だからこそ惰性は怖いのだ。