懐古

最近ふと、二年ほどばかり前にいたスウェーデンのことを思い出す。

思い出すというのは具体的には、自分が住んでいた寮の部屋のことである。

首都ストックホルムの中心から四キロほどに北にある学生寮に私の小さなキャビンはあった。

中央駅から地下鉄に二〇分ほどゆられて、四つ目の駅で下車したあとそこから徒歩で一〇分のところだ。

学生寮一帯の最西端に位置するビルディングの四階に部屋があった。

入り口から階段を登ること六四段目に四階の入り口にたどりつく。

ドアに四桁のパスコードを入力してから中に入り、三歩すすんでから、右に一歩踏み出れば私の部屋がある。

ドアの材質は木で、金属製のドアノブの上約五センチほどのところに鍵穴がある。

ここまでは私の記憶は鮮明だった。




しかしどうしても自分が使っていた鍵の形が思い出せないのだ。

それがごくごく普通の鍵であったことは覚えている。

しかしその黒いプラスチックの持ち手の部分が記憶の中でははっきりとしない。

それが楕円に近い形だったのか、それとも金属との接合部分を根幹に逆三角形をなしていたのか、いずれにせよ定かではないのだ。

スウェーデンからの帰国直後、自分が使っていた机のざらついた感触もはっきりと手に残っていたのに、次第にその触覚にうったえたものが失われていっているのである。

けっしてすべてが忘却されるわけではない。

しかし、まず私の記憶からは物を触ったときの感じ、次いで匂いの感覚、そしてだんだんと視覚的な映像が、流失していっているのだ。

窓を終日開け放していたときに砂でにわかにざらついた机の表面、

日ごろ使っていた石鹸の香り、

それにバスルームのタイルの白がくすんでいたのか、それとも発色のよい白であったのか、

もはや正確に想起することは不可能である。




そのようなときに懐古の念は生じるのではないか。

時間を感じるのが人間の意識の作用によるものなら、過去を懐かしむかどうか判断する基準は記憶の作用を受けているはずである。

霧がかかったように漠然としか思い出せなくなったら懐かしむ。

それは記憶の補完を達成したという欲求であり、

本性的に曖昧をきらうものであるならば欲求はより強くなるはずである。