失言と発言
柳沢伯夫厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言、みなさまは、いかがお考えだろうか。
女性蔑視として非難するもよし。
軽蔑するもよし。
そして任命権者の総理大臣の見識を疑うもよし。
あなた方が持つどの意見も間違ってはいない。
しかし、ただ一点、奇妙なのが、これが「大臣の発言」という表現で報道されているところにある。
この表現は的を得たものであるか。
結論から言えば、あれは「失言」なのではないか。
この”発言”と”失言”という、二つの言葉の違いに気づかせない報道に、恣意性をかんじる。
何が違うか。
そんなの細かいことだ、なんて思わずに、まあ聞いてよ。
つまり、ある人がまずいことを言ったとして、
その言葉を陳謝しなかったら、それは”発言”であり、その人の意見だ。
たとえば、石原都知事は、過去に「文明がもたらした、もっとも有害なものは、ばばあ」云々、
という発言をしている。
これは”発言”だ。
なぜなら、石原慎太郎はこの言に謝罪せず、もう一度言ったからである。
明確な意思表明である。
しかし、今回の柳沢大臣は、まずいことを言ったその席で、直後に謝罪してるのである。
これは果たして、本人の意見表明なのだろうか。
その講演での内容が見つからないので、今回は大臣の事務所に電話したという人のWebpageを参照する。
ttp://ifinder.jugem.cc/
それによると、
「統計学的には、女性は15歳~50歳が出産できる。2030年に30歳の人は、今は7,8歳だ。もう生まれてしまっている。生む機械とはなんだが、装置の数がもう決まってしまった。機械と言っては、本当に申し訳ないんだけども。機械って言ってごめんなさい。その生む役目の人が、ひとり頭で頑張ってもらうしかない。」
なのだ。
たしかに「産む機械(原文では”生む機械”となっている)」はぞんざいな言い方である。
しかし、注目すべきは、その直後で大臣はあやまっているのである。
そして、その発言の後には、正式に謝罪もしているのである。
この場合の大臣の言質(げんち)はどこにあるのか。
”産む機械”をそのまま「大臣の意見」として受け入れていいのか。
そこには疑問がある。
未だ明らかになっていないのは、そのぽろっと出た言葉が、本音であったのか、
もしくは、政治家としての適切な表現力(Political Correctness)のないがための、
不注意の発言、つまり失言か、という点なのだ。
もし本音であるなら、大臣は女性を産む機械だと考えている、ということで差し支えない。
しかし、この直後の謝罪をみる限りは、
「本心から、産む機械だとは考えていないのでは」という可能性も多分に残っているのである。
むろん、真意は両者のどちらなのかを見いだすのは難しいが。
わたしは、これは”失言”と認識すべきだと考える。
大臣としての言葉の適切さを失していたから出てしまった言葉なのである。
不適切な言い回しであるが、この表現が「大臣の本音である」と批判するのは、早合点でおかしい。
しかも本来、議論の骨子となっているのは、少子化に憂慮しているという点である。
女性を卑下する意図はない。
大臣としての表現能力には批判はあってしかるべき。
しかし、本人の意図しない、つまり”失言”で、辞任要求にまで発展するのは揚げ足取りに近い。
これは本人の”意見”ではなく、”口をついて出てしまった言葉”、と解するのが適切である。
以上のように、発言と失言には微妙なニュアンスの違いがある。
そして、上記の説明でそれがわかったならば、
両者の受け取り方も、もともと、われわれの中で潜在的に異なっていたとは思わないだろうか。
つまり、「本人が本当にそう考えている」、という印象が”発言”という語彙に含まれているのだ。
しかし、「本人の意図がはっきりしない」、”失言”のほうが的を得た表現ではないか。
二つの語彙が与える印象の違いが、ここでは意図的に使い分けられているのではないか。
失言よりも発言としたほうが、批判の矛先をより鋭く誘導できるからである。
無意識下の感受性にうったえるようなものなので、そう考えるのは難しいかもしれない。
しかし、今回の言動を断定的に”発言”の方向へ誘導するのは、恣意的だと感じるのである。
言葉のセレクションの微妙な濃淡に、世論はわずかにミスリードされている。
以上、おしまい。
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ちなみに、”発言(つまり本音)”で辞任した例をひとつ。
1978年、統合幕僚会議議長(自衛官のトップ)だった栗栖弘臣の週刊誌上の発言。
「現行の自衛隊法には不備があり、第一線の指揮官は超法規行動をとらざる終えない」云々、と。
自衛官という性質上、関連する例として挙げるのは適切ではないかもしれないが、
この発言は当時、強烈な非難を浴び、本人はいろいろの圧力のもとに辞職した。
軍人が政治に大いに関与した、そしてその戦争に敗北した、
というかのトラウマの最中にあった時代では、軽率な発言なのかもしれない。
しかしその指摘自体はなんら間違ったことではなかった。
むしろ、そんな時代にあっては、女性に対する言葉の意識こそ低かったかもしれない。
その昔は、産む機械に同様の発言はとがめもなく流されていたとも考えられる。
しかし今は違う。
時代は変わるからだ。
女性蔑視として非難するもよし。
軽蔑するもよし。
そして任命権者の総理大臣の見識を疑うもよし。
あなた方が持つどの意見も間違ってはいない。
しかし、ただ一点、奇妙なのが、これが「大臣の発言」という表現で報道されているところにある。
この表現は的を得たものであるか。
結論から言えば、あれは「失言」なのではないか。
この”発言”と”失言”という、二つの言葉の違いに気づかせない報道に、恣意性をかんじる。
何が違うか。
そんなの細かいことだ、なんて思わずに、まあ聞いてよ。
つまり、ある人がまずいことを言ったとして、
その言葉を陳謝しなかったら、それは”発言”であり、その人の意見だ。
たとえば、石原都知事は、過去に「文明がもたらした、もっとも有害なものは、ばばあ」云々、
という発言をしている。
これは”発言”だ。
なぜなら、石原慎太郎はこの言に謝罪せず、もう一度言ったからである。
明確な意思表明である。
しかし、今回の柳沢大臣は、まずいことを言ったその席で、直後に謝罪してるのである。
これは果たして、本人の意見表明なのだろうか。
その講演での内容が見つからないので、今回は大臣の事務所に電話したという人のWebpageを参照する。
ttp://ifinder.jugem.cc/
それによると、
「統計学的には、女性は15歳~50歳が出産できる。2030年に30歳の人は、今は7,8歳だ。もう生まれてしまっている。生む機械とはなんだが、装置の数がもう決まってしまった。機械と言っては、本当に申し訳ないんだけども。機械って言ってごめんなさい。その生む役目の人が、ひとり頭で頑張ってもらうしかない。」
なのだ。
たしかに「産む機械(原文では”生む機械”となっている)」はぞんざいな言い方である。
しかし、注目すべきは、その直後で大臣はあやまっているのである。
そして、その発言の後には、正式に謝罪もしているのである。
この場合の大臣の言質(げんち)はどこにあるのか。
”産む機械”をそのまま「大臣の意見」として受け入れていいのか。
そこには疑問がある。
未だ明らかになっていないのは、そのぽろっと出た言葉が、本音であったのか、
もしくは、政治家としての適切な表現力(Political Correctness)のないがための、
不注意の発言、つまり失言か、という点なのだ。
もし本音であるなら、大臣は女性を産む機械だと考えている、ということで差し支えない。
しかし、この直後の謝罪をみる限りは、
「本心から、産む機械だとは考えていないのでは」という可能性も多分に残っているのである。
むろん、真意は両者のどちらなのかを見いだすのは難しいが。
わたしは、これは”失言”と認識すべきだと考える。
大臣としての言葉の適切さを失していたから出てしまった言葉なのである。
不適切な言い回しであるが、この表現が「大臣の本音である」と批判するのは、早合点でおかしい。
しかも本来、議論の骨子となっているのは、少子化に憂慮しているという点である。
女性を卑下する意図はない。
大臣としての表現能力には批判はあってしかるべき。
しかし、本人の意図しない、つまり”失言”で、辞任要求にまで発展するのは揚げ足取りに近い。
これは本人の”意見”ではなく、”口をついて出てしまった言葉”、と解するのが適切である。
以上のように、発言と失言には微妙なニュアンスの違いがある。
そして、上記の説明でそれがわかったならば、
両者の受け取り方も、もともと、われわれの中で潜在的に異なっていたとは思わないだろうか。
つまり、「本人が本当にそう考えている」、という印象が”発言”という語彙に含まれているのだ。
しかし、「本人の意図がはっきりしない」、”失言”のほうが的を得た表現ではないか。
二つの語彙が与える印象の違いが、ここでは意図的に使い分けられているのではないか。
失言よりも発言としたほうが、批判の矛先をより鋭く誘導できるからである。
無意識下の感受性にうったえるようなものなので、そう考えるのは難しいかもしれない。
しかし、今回の言動を断定的に”発言”の方向へ誘導するのは、恣意的だと感じるのである。
言葉のセレクションの微妙な濃淡に、世論はわずかにミスリードされている。
以上、おしまい。
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ちなみに、”発言(つまり本音)”で辞任した例をひとつ。
1978年、統合幕僚会議議長(自衛官のトップ)だった栗栖弘臣の週刊誌上の発言。
「現行の自衛隊法には不備があり、第一線の指揮官は超法規行動をとらざる終えない」云々、と。
自衛官という性質上、関連する例として挙げるのは適切ではないかもしれないが、
この発言は当時、強烈な非難を浴び、本人はいろいろの圧力のもとに辞職した。
軍人が政治に大いに関与した、そしてその戦争に敗北した、
というかのトラウマの最中にあった時代では、軽率な発言なのかもしれない。
しかしその指摘自体はなんら間違ったことではなかった。
むしろ、そんな時代にあっては、女性に対する言葉の意識こそ低かったかもしれない。
その昔は、産む機械に同様の発言はとがめもなく流されていたとも考えられる。
しかし今は違う。
時代は変わるからだ。