「若さ」の多様性と複数の定義の共存

「若さ」には普遍的な観念があるか。

答えは、Noである。

これほど定義が複数存在する言葉はあまりない。

なぜなら「若さ」は社会的な要因によって十人十色の定義をもつからである。

ここでは「若さ」という言葉が一般的に社会的・職業的な環境などの外的な要因により、範疇的に定義されるということを指摘したい。

範疇的とはつまり、「個々の価値判断をすることなしに、それをいずれかの集団に帰属させようとすること」である。

例えば哺乳類のヒト科に属していれば、どんな人格者でも悪党でも同じ人間と見るのが範疇的である。

それとは反対に「あんな冷血な奴は人間ではない」とするのは「価値的」である。

「若さ」の定義には前者の範疇的なアプローチがなされる。

範疇には社会的ステータスがあげられ、これはいくつかのカテゴリーに分けることができる。

例えばスポーツ選手、政治家、歌舞伎役者などがこれである。

スポーツの世界では30歳の選手は若手とは呼ばれない。

18歳や19歳の少年たちがこの世界での若手である。

では政治の世界ではどうだろう。

40歳でも「若さの力で国政を動かす」というのは常套句である。

40歳といえば一般的には決して若くはない、しかし「政治家」という社会的ステータスを通してみれば彼は決して老いてはいないのである。

歌舞伎役者は50歳でもまだまだ若い。

中村勘三郎は襲名披露公演で「50歳はこの(歌舞伎の)世界ではまだまだ若手でございます」と自らの年齢について言及していた。

これは謙遜と年長者への配慮ともとれるが、その態度はまさに若手のそれである。

中村勘三郎は一度舞台から降りれば51歳のおじさんである。

歌舞伎役者という社会的ステータスのフィルターを抜きにしてみれば彼は若くはない。

しかし個人の「若さ」を決定する上で年齢は必ずしも中心的な役割を果たさないのである。

大酒を飲んだり、後輩の元カノ(米倉涼子)に手を出したりするのは、やんちゃそのものであるが。





「若さ」という言葉は社会的なステータスによって複数の定義が共存しうる言葉なのである。

「個人の要素に関係なくスポーツ選手で30歳だからベテラン、政治家で40歳だから若手」とするのは、繰り返すが範疇的なのである。

確かに、個人の外見的な若さをとって価値的に「若い」と判断することは可能である。

しかしそれはあくまでも表面的な若さであって、その人が「若い」かどうかの判断は人によって異なるのである。

ここで求めているのは、100人中100人が納得する社会的な範疇による共通の定義が存在しうるかという問題である。

それは、複数の定義が共存するという条件の下で、存在できるのである。

そして「20歳だから若い、50歳だから若くない」という考えは、前述の社会的なステータスを全く無視した、数学的な論理に陥ってしまう。

「若さ」に対して複数の社会的要素による定義が存在しうるこの社会において、単純に年齢だけで若さを決定するのは不可能なのである。

一つの言葉に複数の定義が存在し、しかもその定義たちは反発し合わないのである。

「若さ」という言葉の一つの中には社会の多様性が見え隠れするのである。