ジャケット

高校の恩師お気に入りのブランド、ブルックス・ブラザーズの店舗が市内の大通りにある。

お気に入りということは去年別の先生から伺い知ったことなのだが、

そのとき顧問の先生のファッションを思い出したら、なるほどなかなかモードな感じだった気がする。

吊りベルト、もとい、サスペンダーを吊り下げ広めのベルトループに銀色の金具を差し込んでいた。

今考えると、四〇年代の映画『キー・ラーゴ』に登場するハリウッド俳優のような格好だったような感じもするが、

世界史の先生なので、きっと西洋の香りを醸成せんがための服装だったのかもしれないが、

そもそもブルックス・ブラザーズは、瀟洒な若さよりも、パリッとした粋ぷりを発揮するためのブランドなのである。

恩師の服装だからかもしれないが、一〇年以上前の先生のある日の格好を覚えているのは不思議なことである。

きっとそれはブルックス・ブラザーズの服だからなせる写真的記憶術なのだと思った、

のがおそよ一週間前のことである。




春物のジャケットを求めて、GAPを冷やかし、セール中でごったがえすHAREの店内で揉まれ、

ベネトンで惜しい感じのものに出会い、

ユニクロを素通りし、最後にその並びのBBに入ってみたときのこと。

店の奥に良い感じのジャケットが見えたので吸い寄せられるように入店。

ジャケットというのはスーツのことではない、と先にことわっておく。

電車に揺られる普通のサラリーマンが着ているような上着はスーツである。

Yシャツの代わりに白地のTシャツの上にスーツを着ているリーマンがいたら、電車のなかでも浮くだろう。

あー、あの人どうしたんだろう。何かの事情でYシャツで出勤できないんだろうけど、やっちゃったな、

と傍目に思われるのがスーツ&Tシャツで、スーツというのはそのくらいアンダーの融通が利かないものなのである。

ユニクロで売っている企業の暖簾がプリントされた誰が買うのか分からない謎のTシャツでも、

なんとなく合わせることが可能なミラクルな上着がジャケットである。




さて、良い感じのジャケットめがけて店の奥に進んでいくと、

蝶ネクタイをした店員さんが視界に現われた。

どこかで見た感じの顔だと思ったら、世界のナベアツという芸人にそっくりだった。

口髭がないから、ご兄弟ですか?と尋ねるよりも、灰色のジャケットに釘付け。

胸筋を鍛えすぎた深夜のGold’s Gymのお兄さんのごとくマネキンは鳩胸。

ジャケットの悲鳴が聞こえそうなくらい、服はぱっつんぱっつんだったが、

うーん、ダンディー、やっぱジャケットはこのくらい色つやがよくないと。

だが、値札がついていない。

セミオーダーの見本品だそうで、非売品なり。

高校の先生は普通の公立校の教師で、まあ、

先生の給料で買えるんだったら俺のバイト代位でもキャッチアップ可能だろう、

と高をくくっていた。

他にもこんなジャケットがありますよ、二階に案内されると案の定、ダブルのスーツの山である。

いや正確にはダブルのジャケットなのだろうが、ジャケットをダブルにすることになんの意味があろうか。

ゴルフの優勝者に特大の自動車の鍵を渡すおじさんが着ているのがおそらくダブルのジャケットだ。

日曜夕方のテレビで見たことがある。

それにBBのあんチャンがジャケットですと言うからには、これはブレザーではなくジャケットなのだ。

ストライプの入った、丈の長い、腹の両サイドに金ボタンのある、シルエットが寸胴に見えるジャケットである。

大学生の頃そういうジャケットを着ていて、地上げ屋に間違えられたことがある。

だが現実に、そういうジャケットが一〇万以上の値札をひっさげる目の前に勢揃いしているのである。

早々に退散しないと、セミオーダーの仕立てに定規をあてられそうになる。

不思議なもので、段々買う気がなくなってくると、自分の欲しかったものはこのブランドではなかったんだ、という自己催眠が発動する。

それは値段のせいもあるが、どうも自分にフィットしない感が四割くらい手伝っている。

残念、灰色のシングルでシュッとしている丈の短いのを探してるんです。

まるでブランドの捕球範囲から逸脱したワイルドピッチをかまして退店。

結局、近所の謎のイタリア系のブランドで花見用のジャケットを買いましたとさ。




結論:先生、ボクにはまだ早かったみたいです。