古本漁り

古本市から帰宅

ランケ、オーギュスタン・ベルク、アルチュセールチョムスキーの本を買う

まったく統一感無し

それ以外に、イェシュタードの『ローマ都市の起源』、西川幸治の『日本都市史研究』

こいつらはちょっと高かった、計3500円

都市論は専攻領域なんで仕方なし




一時期、ベルクは大分流行したような印象をうける

和辻哲郎の風土を援用しフランス人らしい散文調の日本景観論をぶちあげたベルク

が、最近は何をしてるのかよく分からない

ベルクの登場はバルトの日本論が流行した時期とかぶっている。

ま、日本を賞賛する西洋人というのは開国以来の泣き所ではあるけど。

最近はシャーマの登場で、平易でも佶屈でもなく含蓄のある風景論が印象づけられてしまったので、

風景と散文というのはフランス人の専売特許というわけでもなくなっている。




アルチュセールのなにがすごいのか個人的にはよく分からん

資本主義国の再生産構造を媒介として生起する支配の構造、

というのがアルチュセールのすごさなのだろうか。

今から考えてみればそれほど斬新には思えないし、

今日び資本主義国の枠組みだけで構造論をわたり歩いてもあんまり意味ないように思える。




で、ランケなのだけど、近代歴史学の父とか言われてるが、

林健太郎鈴木成高以外にランケに着目している学者もたいしていない気がする。

ピエール・ノラの『記憶の場』の英訳版買ってみたついでにランケも読みたくなった。

しかし邦訳されているランケの本はおしなべて総論とか概説のたぐいで、

はたしてランケは高校の世界史の編纂者かと錯覚することがままある。

90歳くらいまで長生きしたことも手伝ってか、たしか原書全集は膨大な数だった筈である。

ギボンやモンテスキューローマ帝国の叙述史が翻訳される一方で、

ランケ翻訳が国定教科書のレベルにとどまっているのもおかしな話である。




そして都市論なのだが、ローマの都市が条坊制なのか円環状なのか、

というのが修論の一つのテーマだった。

パルテノン神殿を宇宙の中心として放射状に拡大するアテナイの都市

というイメージと、

外壁に囲まれた都城性の都市というローマ、

が対置されるのか非常に微妙だったのだ。

都市の区画が、平安京よろしく縦横の直線につらぬかれていることはおそらく間違いないのだが、

ローマを囲む堀まで正方形をしていたのか、都市の際(きわ)は実は円状だったのではないか説があって、

民族のコスモロジーを円と四角で分類しようとした項で大分苦心した。

結局今もって不明である。

『ローマ都市の起源』はスウェーデン歴史学者の六冊立て叢書の最終巻を翻訳したものだが、

ぱらっと見た感じでは、それに対する答えはなさそうである。

イェシュタードのEarly Romeという本である。




西川幸治の『日本都市史研究』はきちんとしたものだけど、

オタクのバイブル的な、その名前を出せばオタク同士はナメクジのようになれ合える、

という種類の本ではない。

500円くらい売っていたら手に入れるべき本である。

大学院生用の教科書という感じ




『言語と精神』は500円で買ったが、こちらはフンボルトのコスモスではなくチョムスキーの本である。

この頃のチョムスキーは、脚注で本音を語る困ったちゃん、

裏路地に真実をおきたがるタイプなので、隅々まで読まないと味がない。




ユリイカのシュルレアリズム特集号が200円で売っていたので買ってしまった。

そういえばダダとシュルレアリズムの違いが今もってよくわからないが、

「イズム」と言われているものをダダと並列化してしまう時点で本末転倒という気がする。

アンドレ・ブルトンの溶ける魚やナジャをのぞけば、

ブルトンが素面で文章を書いていたとは到底信じられない。

まだラディゲの死を背負ったコクトーの脳みそのほうが整然としている。

なぜぐちゃぐちゃな自動筆記をismという体系性へと帰結させようとしたのだろうか。




東京いる間にがんばって今日買ってきた本を読破しよう。

楽しみ。