本日も稽古

さいきんになってやっと高校時代に享けた、指導の意味がわかるようになった。

「両肩をひらくように」とか「胸をひらくように」と言われても、

あのころはチンプンカンプンでまったくできなかったのが、

最近になってその意味がわかった気がする。

今までガチガチになって弓を引いていたから、自分の体の働きがよくわからなかったのだ。

力を抜いて強い弓に負けずに引けば引くほどに、体の働きを感じることができる。

すごい矢を飛ばすことができる。

(弱い弓だと分からない境地だ)

やっぱり秋口に弓力をあげちゃおう。

弓を続けててよかった、と思える一日。




夕方、道場に二人、外国人の見学者が訪れる。

土地柄もあり、稽古を見学に来る外国人はたえない。

頼まれもしないのに彼らに弓の英語解説するのが私のルーティンワークだ。

いつものように師範台に座ってお客さんと話していると、

二人はご夫婦でイスラエルの心理学者だそうだ。

禅、茶道、弓道などの日本の道と心理のつながりに関心があるそうな。

オイゲン・ヘリゲルの弓と禅も読了しているという知的なカップル。

そして、次のような質問が、

「あなたはなぜ弓を引いているのか」




あまりに単純すぎて言っていいのか憚られたが、

弓を引くのは、自分に自信をもつため、とこたえる。

最高の矢飛び、矢が水平に刺さる的中を得られるのなら、

試合・稽古に関わらず、テンションは大いにあがる。

俺にだってできるんだ、

というすがすがしく気分をもとめて弓を引いているんだ。

試合で優勝するとか、国体に出たいなど関係なく、

いい!と思える弓を引いているのだ。

とくどくどしく説明したが、先方はどこか腑に落ちない様子だった。




模範的な答えじゃなかっただろう。

彼らが禅や茶や弓という話題をだしたのは、道の根幹が同じなのか、

弓や茶の修養が人間の生活にどう影響するのか知りたかったんだろう。

今更おそいが、この日記でちゃんと考えてみよう。




精神の充溢を期す、自らを律する、

というのは道の決まり文句だとおもう。

小生も茶を習っている手前、道の共通性に知らん顔もできない。

でも、共通しているということがどれほど重要なのか、

精神を律する修養する云々がどう実現されるのだろう。

たぶん、自分の言葉で言うと、

「精神の充溢」は、

「ものすごい矢を飛ばして的の真ん中にあててやったーとなること」だと思う。

「自らを律する」は、

「やったーとなった後の一日は幸せに暮らせるから、その勢いで勉強もうまくこなせる」

ことになるんだろうと思う。








さらに、なんでたくさん稽古するの?

ということも聞かれたが、よー答えられんでした。




今になって思えば次のように答えたら模範的だったかもしれない。

道は、単に的中や茶のうまさだけではなく、見た目も重視する。

人の目から見て、あの人の弓はすごい、茶のたて方は美しい、と思われるか。

的中が出るだけでなく射も美しい!

茶がうまいだけでなく所作も綺麗!

と内容と外容の両方に、すごい!と他人をうならせる境地に達するために稽古するのである。




弓も茶も、中りを得ること、うまい茶をたてること自体は、さほど難しいことじゃない。

ただし、滞りなく運ばれる所作の美しさを達成するのが難しい。

(同じ動作の反復を延々と、それこそ何十年もつづけるのだから、

私なんかは時に体配をおざなりにしてしまう。)

的にあてたい、おいしい茶をたてたい、という気持ちがはやって、

自分の体がどう働いているか無視しがちだと、

道は術にばかりフォーカスしていることになり、外面は貧しくなる。

でもそれだと、人から「あいつはおいしいとこだけごちそうさましている」

という外部的な非難があるだろうし、

射手や茶頭も自分だけの世界に没入していくことになる。




弓も茶も相手が居て、成り立つことである。

弓は人を殺し、茶は人をもてなす。

(現代弓道の的の大きさは成人の胴の大きさであること、

競射などで使用する八寸的の星の大きさは、人間の心臓のサイズであることを忘れてはいけない。)




弓と茶の根幹には、

的中・茶うまし!、という要素、

そして動作の美しさ・所作の洗練という要素があって、

両方をどうやってフュージョンさせるか、

悩んだり苦しんだり喜んだりするのがつまり道(どう)なんだと思う。




そして、四苦八苦、欣喜雀躍して生み出されていく個人の弓や茶のありように、

最終的にその人の人生が現れるんだと思う。