プロポ

値段が千円の本なら、やはりそれが示すものは千円相応の内容である。

学術に関係する書籍であるならばさらにその傾向は強くなる。

しかしそれが廉価販売を目的として文庫版にリサイズされた書籍であるならば、

そう考えることは適当ではない。

アントン・レクラムや岩波茂雄は、学術、しかも全体としての学術を、

出版の面から支えたのである。

その制度は今現在も生き、そういった意味では彼らもまた生き続けている。

一寸考えたことは、

かの故人の存在に誰かが言及したとき、

その故人は死してなお無形の存在を継続しているといえることだ。

鬼籍に入った誰かを思い出すとき、それは脳内の記憶が喚起されるだけではなく、

つまり単純に思い出しているのではなく、

故人が世に残したものが何らかの形態でもってして現世に表象しているといえる。

現に、会ったことのない人間に対してもわれわれは思いを馳せることができるではないか。

これは故人への回顧という単純な言い回しでは、説明のできない現象である。

思い出しているのではなく、これは新たに故人について知ろうする動機での、回想なのだ。

これから知ろうとする、その未来志向の事象が、対象を過去に向けているに過ぎない。

過去に生きた人間の中に知己を得ること、そのこと自体はこれから発生する現象であり、

それが故人に志向する限りに於いて、幽玄の門戸はいつでも開かれている。

故人からすれば新たな知己を拒絶する権利はもちえないか。

むしろ、それは数多の人を知己に得る機会に故人は恵まれたというべきことか。

考えてみれば著名人とは幸の多いものである。

それがレクラムや岩波茂雄などのあるものの嚆矢となった人物であれば、

その人物が死んだということは回顧する人間にはとっては希薄な事実となろう。