岩波講座 日本歴史

神保町の古本屋で岩波講座の『日本歴史』を買う。

新刊本を買ってしまおうかとも考えていたところだったが、

23巻揃いで3000円という低価格で以前から探していたものだったので、

書店で見かけ少し悩んだ末に買うことに決めた。

サイクリングがてら自転車で近辺まで来ていたのも幸運だった。

もしこれが電車の場合、23巻もの書籍を手さげで運ぶのはかなり過酷であるし、

だからといって料金がかさむ宅急便を使用するなどもってのほかである。

ここは体力に任せ、かごと背嚢に本を満載させ、片道10キロの道を疾走する。

あまりにも背中の本が重過ぎたのか、今はその周りが突っ張るように痛い。

しかし無事に本棚に収納された本を見ていると、この背痛もまたここちよいものとなってくる。




本を取り出し、いざ中身を吟味すると、本カバーが焼けているだけであとは未読状態だ。

いったいに、こういった品が古書店に出るのはどういった事情があるのだろうか。

23冊すべてに油紙がかけられたままの状態で、

おまけに月報まで付属している。

書店でも見たが、やはり新品同様なのだ。

最近はやたらこういった古本にめぐり合うことが多い。

これも幸運であった。




これで私の本棚に歴史の文献がすこしだけ満たされてきた。

さまざまな資料が手元にあることのほうは学術において有利に働く。

図書館が遠くにある場合は思い切って必要な本は買ってしまうのである。

だが、そこで買うのは常に薄汚れた古本で、

新刊本の純白の美しさにいつも恋焦がれているというのが、学生らしい美しい姿である。




ところで、なぜそんな話をするかというに、

最近はしきりに日本の歴史に興味がわくからだ。

とくに大正時代だ。

日本の黎明期の明治と激動の昭和にはさまれるこの時代。

だからといって、それは谷間というべきものか。

花開く日本のデモクラシー、第一次大戦のもたらす好景気、竹久夢二の彩りの画才、米騒動関東大震災

そこに歌謡曲モダンジャズの聞こえてきそうな雰囲気がまざりあい、

私のなかでは大正は不思議な風合いをなしている。

日本人同士が血みどろの争いをしてようやく出来上がった明治、

掘り返すたびに血と鉄のしぶきと涙がわきおこる昭和。

その中間にあっては気後れするようなのびやかさが、大正にはある。

それが実に興味深い。




この岩波講座では、鶴見俊輔が「大正文化」という項目の解説を担当しているが、

大正天皇の頭の病気云々という話からスタートするあたりは冷徹で、

天皇の存在とその時代の相関関係を排除することを真っ先にこころみている。

いわく、天皇あっての大正ではなく、

われわれは大正を通すことによって天皇もまたみているというのだ。

現代的に言えば、天皇がいるから日本国民が統合するのではなく、

日本国民が統合しているから、その上に象徴的な意味での天皇がいる。

大正は市民社会の存在感が大きいという。




同時に、大正の15年を一時代として見るのは、誤りであるという指摘が効果的で、

鶴見俊輔は、明治38年から昭和6年を一時代として区分している。

前者は主に日露戦争終結、後者はシナ事変勃発の年であり、

この26年を大正文化の影響下にある年間としてみているのだ。

ここでも元号を中心とした考えにとらわれていない。




まだ読み始めたばかりなのでなんともいえないが、

これでまた少しは私も大正通になれるだろうか。

非常に楽しみである。