夜の住民

団地のビルの合間を歩いていると、よく猫に遭遇する。

多くの場合は夜に。

昼間はとんと見かけないにもかかわらず、深夜に近い時間になると、いつの間にか駐車場や団地の入り口のあたり大勢にたむろしている。

すべて野良である。

団地に住みついているからといって、人間から餌を貰いなれているわけでもない。

私が近づいていくと散るように猫たちはすぐさま逃げてしまう。

たまに人慣れしている猫に出遭って、これに触れてみようとすると、大勢の人に触られているせいか、どことなく毛並みがよくない。

からしてみたら、私のような餌もくれないで、ただで触るだけの客は鼻にもかけたくない迷惑者かもしれない。

それにしても彼らに食べ物を与えているのはいったいどんな人だろう。

団地のあちらこちらには、猫に餌をあげるな、云々というはりがみがある。

それを承知であげているのだ、よほど肝が据わっているのか。




斯様のようなことを考えながら、先日、夜道を散歩していると、

道のはずれにたたずんでいる人を暗がりの中にみる。

その足元には数匹の猫が見上げるようにして集まっている。

まさに今、餌をあたえているのだ。

暗闇に包まれてよくはわからないが、どうやら初老の女のようである。

歩を緩めて、しかし立ち止まらないように、数メートルほどの距離から静かにその場を流し見る。

彼女は帽子をかぶっているので、その下の表情はよく分からない。

そのたたずまいの醸す雰囲気は、餌付けを楽しんでいるわけでもなく、

一向に無感情である。

こちらの存在に気づいてか、猫を愛でるのを遠慮しているのかもしれない。

しかし、その猫を前に棒立ちする姿はあまり人に与える印象をもたない。




その瞬間、なんともなしに、餌を与える人たちのことを理解した気がする。

それは猫を養うことで自分自身が満たされるということである。

猫に食べ物を与える人はこの団地では彼女だけではない。

また違う夜には、餌をあげる男の人を見たのだ。

そのような彼らの心中には、与えることで満たされるという感情の作用があるのではないか。

つまり、猫が満足する姿をみることで、自分も満たされようと欲する心理である。

これはいたって原始的な例かもしれないが、幼児の養育もこれと似ている。

赤子が身体的な空腹を満たしたときに、親はそれを見届けることで一種の満足感を得る。

子どもが満腹であると同時に親は心的に満たされるのである。

満腹は親に育児の達成感を与える。

親は自分がただ食事をとるだけでは心的な満足は得られない。

心的な満足にはあくまでも、自分以外のものを世話した、という要素が必要なのである。

そして世話の相手は、猫や幼児などの、

自分自身では空腹を満たすことが実際的に困難なものたちでなければならない。

その彼らを補助した、という心理が作用することによって、

食事を与える側も同時に満足するのである。

夜な夜な猫に食べ物を与える人たちの心中にはきっとこういった心理も働いているに違いない。




ただ単純に、猫がかわいそうだから、という理由で餌をあたえるわけではないのだ。

猫を悲しむだけなら誰にでも出来るが、それだけではなく、

餌を与えるに至るにはやはり心的な満足への欲求があるのではないか。

子どもを養う親のように。




今度は彼らに話しかけてみたい。