ボランティアと世界主義
ボランティアと世界主義に接点はあるか?
もしそう聞かれたらどう答えるか。
まずそんなことは聞かれないだろうが、
答えは「ない」ではない。
「ある」、少なくとも今の日本には、確実にある。
ボランティアとは説明するまでもなく、社会貢献の一形態である。利益を目的としないが、持続的な集団を形成しない点でNGO・NPOと区別できる。震災などの救助活動をするのがNPOで、ミャンマーの軍事政権に反対するビラを配るのがNGOなら、商店街の一日ゴミ拾いがボランティアである。
別に規模を問題にしているわけでも、ボランティアをこけにしているわけでもない。
着目すべきなのはその非政治性である。
例えば私もボランティアをやっている。発達障害の子供の家庭教師だ。一銭も儲からない。
しかしお金を得るためにやっているのではなく、私が得るのは満足感である。
障害があるために家庭教師の派遣会社に依頼を断られる子供に勉強を教えるのだ。
それは「自分が社会貢献をしている」という満足感である。
だが、これは政治とは無縁な領域の話なのだ。
そして世界主義(cosmopolitanism)とは、国境という囲いを越えて、そして固有の利害意識も超えて、地球規模での統一(unity)を目指す考えである。
世界主義は特に自由貿易を中心的なスキームにすえて、国家間の協調を獲得することを主張するものである。グローバル化によって経済の境目が希薄になっている現在では、自由貿易の導入が加速度的にこの理想の実現を近づけるものであろう。
世界主義ではしばしば経済的な自由による統一を呼びかけているが、政治的アクターの融合はあまり言及されない。例えば、国連を中心とした世界政府を確立するといったようなものだ。実際に国連の設立当初はこの「世界政府」の単語が多く言及された。しかし実際的な話、東西冷戦の初期に設立された国連にはunityを獲得するその力がなかった。それどころか世界は二極化する傾向をたどったのである。「世界政府」などは今となってはなじみのない言葉になった。
日本人にとって、この世界主義という言葉にはどういうイメージがあるだろう?ぼんやりと頭に浮かぶイメージだ。果たしてそこに、今の「世界政府」というような単語は想起されるだろうか。おそらくないのではないか。むしろ頭にぼんやりと浮かぶのは、四方の海の同胞が皆協和するというような、単純な友好のイメージである。
この「世界主義」には「世界政府」という言葉は含まれていないのである。
このボランティアと世界主義は、政治性がないという共通のバックグラウンドを持つ。
それが接点である。
しかし、こんなところで話は終わらない。ここからは私の主張である。
これらは日本人の精神構造(特に私を含めた若い人)についてまわる問題なのだ。
ボランティアの人に政治的イデオロギーを表明してもらえるかという話である。
つまり「お前は右翼かそれとも左翼かと」。
中には質問を拒絶するか、こう答える人がいるはずだ「真ん中である」と。
真ん中とはどこだ?右翼と左翼の真ん中とはいったいどういう用件なのか。
日本において、そう答える人は「非政治的人間」に属される。
つまり積極的に政治にかかわることを嫌う人たちのことだ。
彼らは思想的には真ん中にも位置づけられない、「枠外」の存在なのだ。
そして、そのような「非政治的人間」ほど先の世界主義的な平和を主張するのだ。
つまり政治的裏づけがない平和の主張である。
その最たるものが、憲法9条を根幹とした平和主義である。
「9条の理念にある平和を世界に広めよう」というのは共産党の決まりきっていて磨耗した文句であるが、この憲法9条をもとにした平和の主張に賛同する人ほど、政治の世界に組みされるのを嫌う。
ボランティアにも同じことが言える。
ボランティアは「社会貢献」であり「社会活動」ではない。
社会のために貢献して、そして喜ばれるようなものがボランティアである。
それは社会の内部で積極的に作用する活動ではない。
その反面、「社会活動」は純粋は政治活動である。
これは「社会貢献」とは一線を画す。
なぜなら、政治的な活動には社会に貢献したかを判断する尺度がないからである。
政治信条の自由が保障されている限り右翼も左翼も共存できる。
社会全体に貢献できる政治活動など初めから存在しないのである。
例えば、ミャンマーの軍事政権反対のビラ配りは抑圧された人のために行われる。
しかし実際に軍事政権が転覆したら社会に混乱をきたすことも考えられる。
抑圧された人を解放したとしても、必ずしも社会全体の貢献には至らないのだ。
その反面、商店街のゴミ拾いによって社会に混乱は生じるか。
それはありえない。むしろ誰にも反対されないのだ。
だからボランティアはいいのか。
ちがう、そうではない。
ゴミ拾い程度で自分が何か大きなことをしていると思ったらそれは大きな間違えだ。
電車の中で転がる空き缶をゴミ箱に入れたから、自分には今日一日良いことがあるのか。
そんなもので社会に貢献していると思えるほど幸せ者なのか。
100円を募金して本当に遠いアフリカの地で子供の命が救われるのか。
本当なのかもしれない、しかしそんなことはこの目で見ることはできない。
100円で得られるのは子供の命ではなく自身の安寧である。
「命が救われた」という勝手な予測と妄想で自分自身が満足しているのだ。
それがボランティアの本当の姿だ。
自分自身にはこれっぽっちの痛みもないのだ。
政治的主張には批判が伴い、常に敵が存在する。
自分が憲法9条など必要ないというのなら、全国にいる共産党員が思想的な敵だ。
主張することは痛い、自分が他人の心と違うと思うのは苦しいことなのだ。
だからといって恐れているのがボランティアであり、私の説明した世界主義だ。
時間的な制約があるのからボランティアなのか。
なぜNGOやNPOに入って特定の主義主張を支持したりしないのか。
ゴミ拾いするくらいしか時間がないのか。
もしかしたらゴミ拾いするくらいの勇気しかないのではないか。
そんな勇気は掃いて捨ててしまえばいい。
そんな宙ぶらりんの心で日本人が平和を主張するうちは、世界主義は実現不可能な白昼夢であり続ける。
自分たちが政治と距離を置こうとする態度に問題がある。
反対されるからやらない。
痛いからやらない。
それが日本人の事なかれ主義である。
その延長線上に、足元のおぼつかない平和の主張と誓いがある。
明日をも知れぬ繊細さと、もろさの上に日本はそっと足を乗せているのだ。
その既存の日本が崩れるときが、日本人が自分の甘さを再認識するときである。
そんな甘ったるい日本人の中に入っていたいと思わないのは私だけではないはずだ。
私は日本人で日本のことが大好きだが、逃げまくっているうちは「日本の未来は明るい」などと希望観測的なことはいえない。そんな希望すら見えてこないからだ。
以上が私の主張である。
-おしまい-
もしそう聞かれたらどう答えるか。
まずそんなことは聞かれないだろうが、
答えは「ない」ではない。
「ある」、少なくとも今の日本には、確実にある。
ボランティアとは説明するまでもなく、社会貢献の一形態である。利益を目的としないが、持続的な集団を形成しない点でNGO・NPOと区別できる。震災などの救助活動をするのがNPOで、ミャンマーの軍事政権に反対するビラを配るのがNGOなら、商店街の一日ゴミ拾いがボランティアである。
別に規模を問題にしているわけでも、ボランティアをこけにしているわけでもない。
着目すべきなのはその非政治性である。
例えば私もボランティアをやっている。発達障害の子供の家庭教師だ。一銭も儲からない。
しかしお金を得るためにやっているのではなく、私が得るのは満足感である。
障害があるために家庭教師の派遣会社に依頼を断られる子供に勉強を教えるのだ。
それは「自分が社会貢献をしている」という満足感である。
だが、これは政治とは無縁な領域の話なのだ。
そして世界主義(cosmopolitanism)とは、国境という囲いを越えて、そして固有の利害意識も超えて、地球規模での統一(unity)を目指す考えである。
世界主義は特に自由貿易を中心的なスキームにすえて、国家間の協調を獲得することを主張するものである。グローバル化によって経済の境目が希薄になっている現在では、自由貿易の導入が加速度的にこの理想の実現を近づけるものであろう。
世界主義ではしばしば経済的な自由による統一を呼びかけているが、政治的アクターの融合はあまり言及されない。例えば、国連を中心とした世界政府を確立するといったようなものだ。実際に国連の設立当初はこの「世界政府」の単語が多く言及された。しかし実際的な話、東西冷戦の初期に設立された国連にはunityを獲得するその力がなかった。それどころか世界は二極化する傾向をたどったのである。「世界政府」などは今となってはなじみのない言葉になった。
日本人にとって、この世界主義という言葉にはどういうイメージがあるだろう?ぼんやりと頭に浮かぶイメージだ。果たしてそこに、今の「世界政府」というような単語は想起されるだろうか。おそらくないのではないか。むしろ頭にぼんやりと浮かぶのは、四方の海の同胞が皆協和するというような、単純な友好のイメージである。
この「世界主義」には「世界政府」という言葉は含まれていないのである。
このボランティアと世界主義は、政治性がないという共通のバックグラウンドを持つ。
それが接点である。
しかし、こんなところで話は終わらない。ここからは私の主張である。
これらは日本人の精神構造(特に私を含めた若い人)についてまわる問題なのだ。
ボランティアの人に政治的イデオロギーを表明してもらえるかという話である。
つまり「お前は右翼かそれとも左翼かと」。
中には質問を拒絶するか、こう答える人がいるはずだ「真ん中である」と。
真ん中とはどこだ?右翼と左翼の真ん中とはいったいどういう用件なのか。
日本において、そう答える人は「非政治的人間」に属される。
つまり積極的に政治にかかわることを嫌う人たちのことだ。
彼らは思想的には真ん中にも位置づけられない、「枠外」の存在なのだ。
そして、そのような「非政治的人間」ほど先の世界主義的な平和を主張するのだ。
つまり政治的裏づけがない平和の主張である。
その最たるものが、憲法9条を根幹とした平和主義である。
「9条の理念にある平和を世界に広めよう」というのは共産党の決まりきっていて磨耗した文句であるが、この憲法9条をもとにした平和の主張に賛同する人ほど、政治の世界に組みされるのを嫌う。
ボランティアにも同じことが言える。
ボランティアは「社会貢献」であり「社会活動」ではない。
社会のために貢献して、そして喜ばれるようなものがボランティアである。
それは社会の内部で積極的に作用する活動ではない。
その反面、「社会活動」は純粋は政治活動である。
これは「社会貢献」とは一線を画す。
なぜなら、政治的な活動には社会に貢献したかを判断する尺度がないからである。
政治信条の自由が保障されている限り右翼も左翼も共存できる。
社会全体に貢献できる政治活動など初めから存在しないのである。
例えば、ミャンマーの軍事政権反対のビラ配りは抑圧された人のために行われる。
しかし実際に軍事政権が転覆したら社会に混乱をきたすことも考えられる。
抑圧された人を解放したとしても、必ずしも社会全体の貢献には至らないのだ。
その反面、商店街のゴミ拾いによって社会に混乱は生じるか。
それはありえない。むしろ誰にも反対されないのだ。
だからボランティアはいいのか。
ちがう、そうではない。
ゴミ拾い程度で自分が何か大きなことをしていると思ったらそれは大きな間違えだ。
電車の中で転がる空き缶をゴミ箱に入れたから、自分には今日一日良いことがあるのか。
そんなもので社会に貢献していると思えるほど幸せ者なのか。
100円を募金して本当に遠いアフリカの地で子供の命が救われるのか。
本当なのかもしれない、しかしそんなことはこの目で見ることはできない。
100円で得られるのは子供の命ではなく自身の安寧である。
「命が救われた」という勝手な予測と妄想で自分自身が満足しているのだ。
それがボランティアの本当の姿だ。
自分自身にはこれっぽっちの痛みもないのだ。
政治的主張には批判が伴い、常に敵が存在する。
自分が憲法9条など必要ないというのなら、全国にいる共産党員が思想的な敵だ。
主張することは痛い、自分が他人の心と違うと思うのは苦しいことなのだ。
だからといって恐れているのがボランティアであり、私の説明した世界主義だ。
時間的な制約があるのからボランティアなのか。
なぜNGOやNPOに入って特定の主義主張を支持したりしないのか。
ゴミ拾いするくらいしか時間がないのか。
もしかしたらゴミ拾いするくらいの勇気しかないのではないか。
そんな勇気は掃いて捨ててしまえばいい。
そんな宙ぶらりんの心で日本人が平和を主張するうちは、世界主義は実現不可能な白昼夢であり続ける。
自分たちが政治と距離を置こうとする態度に問題がある。
反対されるからやらない。
痛いからやらない。
それが日本人の事なかれ主義である。
その延長線上に、足元のおぼつかない平和の主張と誓いがある。
明日をも知れぬ繊細さと、もろさの上に日本はそっと足を乗せているのだ。
その既存の日本が崩れるときが、日本人が自分の甘さを再認識するときである。
そんな甘ったるい日本人の中に入っていたいと思わないのは私だけではないはずだ。
私は日本人で日本のことが大好きだが、逃げまくっているうちは「日本の未来は明るい」などと希望観測的なことはいえない。そんな希望すら見えてこないからだ。
以上が私の主張である。
-おしまい-