品川と品川区

私が住んでいるのは品川区である。
よって私は「品川に住んでいます」と自己紹介する。
それを聞いた人には「いいところに住んでるね」とか「金持ちだね」と言われることがある。
私自身そうであって欲しいと願うが、しかし実際にはそんなことはない。
「品川」という単語を聞いたときに人々の心に浮かび上がるイメージはどんなものであろうか。
それはあの品川駅周辺に広がる、大都会の摩天楼たちである。
駅周辺の大きなビル群が品川の大いなる繁栄の雰囲気を作り出している。
本来の品川区は住宅が密集した決して裕福ではない地域である。
しかし「品川」という語はその実情を人に伝える役割を果たさないのである。

つまり「品川に住む」と言うと、
品川駅の高層ビル群周辺に住んでいると思われる傾向にある。
しかもその巨大な建築物たちは厳密には品川区には属さないのにも関わらず。
品川駅は八山橋という大正期に建造された歴史ある橋を隔て、
品川区境より500メートルほど北の港区内に位置している。
人々の心の中の「品川」という絵はその駅周辺を基点として描かれている。
その単語の含意には、私が住んでいるごく一般的な住宅地「品川区」は含まれていない。
「品川」はその母体である「品川区」から浮かび上がっているのである。

他にも品川というと「品川ナンバー」という言葉が思い出される。
TVドラマなどで使われている車は不思議と品川ナンバーのものが多い。
街中でこの品川ナンバーの車を見たら人はその「品川」という表記に、
何かしら特別の感情を抱くのではないか。
そのとき彼らの思考を横切るのは一種の知名度や富裕の印象である。
その発想を根源に向かい辿っていく過程には、あの品川のビル群が傍らにある。
もともと車のナンバーでは「区」は省略されている。
しかしその結果「品川」という名を冠せられたナンバープレートが持つ存在感は、
「品川区」という語に含まれる本来のそれとはかけ離れている。
そうして出来上がった「品川」という像はまたしても、その分離の構造に資するのである。

では、実際に品川区は裕福な土地なのか。
そうではない。
私が住んでいる町は「豊町(ゆたかちょう)」という名だが、
これはその昔は貧窮していた当地の住民が、
少しでも一帯が豊かになるようにとの願いを込めたものである。
そしてひっきりなしに車が通る仲原街道や第二京浜国道辺りの空気は、
その都会の動脈たる役割の中ではお世辞にも健康なものとは言えない。
私の家の周辺は昼間でも閑静な場所に位置するが、
しかしそれは住民が区外に働きに出ているからであり、
品川区がベットタウンであることの証明でもある。
夕暮れ時には駅前のスーパーを中心に買い物客が集まり、
そのときになり町はやっと活気を帯び始める。
夜になると飲み屋の赤提灯がまばらに点灯する。
ここでは都心の昼の人口密度も新宿の夜空の明るさもない。
品川駅周辺の豪華絢爛なイメージはひとたび車の排ガスにまかれ、夕暮れの人並みに揉まれれば、最後には酒の肴となって消え去ってしまう。
それが本当の「品川区」なのである。

このように「品川」というごく限られた地域が、
人々の「品川区」という全体の印象に大きな影響を与えているのである。
私は「品川に住んでいる」というその住民として当たり前の言い回しを使うが、
そこには必要以上に高級なイメージを与える可能性が在しているのだ。
私は品川区民である。品川の摩天楼の住民ではない。
しかしその建築物の巨大さによって、
私は違いを意識せずにはいられないのである。
大きなわずらわしさがそこにはある。


<おまけ>
現在「品川」と呼ばれる地域の発展の歴史について少し。ご存知の方もいるかもしれないが、日本橋を京に向けて発つと最初の宿場町が品川である。「品川宿」と呼ばれたその場所には、江戸時代から戦後に赤線地区が消滅するまでの長期にわたり多くの遊郭が存在していた。その遊郭街に近接して北条時頼が建立した海晏寺(かいあんじ)という紅葉が有名な禅寺がある。遊郭へ行く男たちは、しばしばその紅葉を見に行くと妻に言っていた。それを当意即妙に詠じた「海晏寺 真っ赤なうその つきどころ」という歌は人々の本音を垣間見させる。同時に周辺は江戸の中でも名高い桜の名所であった。幕末にその美しい桜が咲く御殿山にイギリス公使館が建てられ、立ち入ることを禁止された庶民の間には不平が生まれた。その後この公使館は高杉晋作伊藤博文らによって焼き討ちされるが、溜飲が下がったのは誰よりも江戸庶民であっただろう。そしてその攘夷派の者たちが計画の密議をこらした場所も品川の遊郭の一つであった。
また四賢候と呼ばれた幕末の土佐藩主、山之内豊信は隠居しその致仕号を容堂と名乗ったあと、晩年の居所を品川の小高い丘に構えている。鯨海酔候(げいかいすいこう)とも称した酒豪の山之内容堂は当地で亡くなり、その墓は現在も品川にある。その一帯には板垣退助岩倉具視といった近代日本の偉人たちも骨をうずめている。

そして日本の食卓に欠かせない漬物、たくあん。考案者といわれる沢奄宗彭(そうほう)も品川の住職であった。彼の質素な性格を最も物語るものがその墓所である。その高僧の墓にはただ一つの漬物石が置かれているだけである。彼が入滅のときに呟いたという「夢」の一言は、華美の空虚さと形あるものの無常を悟ったものではなかっただろうか。ちなみに沢奄和尚は品川に海苔の製法を伝えたともいわれている。延宝時代(17世紀後半)から昭和30年代に海苔の漁業権が放棄されるまで、品川沖で取れた海苔は江戸の食文化を彩ったのである。今は韓国産の「浅草のり」も昔は品川で取れた海苔を浅草で加工したものだったのである。

このように「品川」と呼ばれる地区には今も歴史の片鱗が多くみられる。もしかすれば、そこには何かしら人の関心を集める魅力があるのかもしれない。時代の変遷の中でその枢軸が遊郭や紅葉を経て、食の発祥を経験し、そして次第に摩天楼へと変化していった。時が経つにつれて、歴史の面影は古い順番に薄れつつある。昔は顕著だったという漁船の往来も今は橋のたもとにわずかに見るのみである。特にこの品川地区は人との行き来を重ねるごとに、その容貌をより洗礼されたものへと変化させていく。10年前は薄暗く寂しかった品川駅も今は高い天井を持ち駅構内も栄え、新幹線まで止まるようになった。現在この駅は都心南部の重要な鉄道の循環機関となっている。

このようなめまぐるしい変化の中にあっては、10年という歳月も品川がまったく異なる風貌へと変化するには十分な期間であろう。そこでは時間がとても早く過ぎていく。ところで、その移り行く時代の流れにいる中でふと歩みを止めてみてはどうか。そしてその周囲の変わらない部分に視線を移してみてはどうか。そこには時代の潮流を脈々と受け入れてきた歴史の魅力そのものが傍らにいることに気づくはずである。