シンボル

カッシーラー的な意味でのシンボルの彼方に、

つまりあらゆるもののうわべを超えた先にある真の実像を、

ほんとうに見定めることが可能なのだろうか。

表象から女を女と判断している時点で、それは真に女ではなく、

あるいはそれが実は女装した男であっても、初期の認識は記録として残るのである。

それは単なる見誤りではなく、表象でしか判断しなかったという失敗の汚点であり、

その初期の表象の中では、女装した男は女となることが逆説的に真なのである。

かの失策は固定観念が絶望的なまでに判断に先行しているということの証左で、

もう表象は時間から切り離されてしまった。




表象世界における冒険は、汽車や船に乗り大陸の向こう側まで旅することを要求しない。

普段使うコーヒーカップの取っ手が半円形ではなく、

実際はより楕円形に近いものであったと気づくことのほうが幾分か有意味である。

なぜなら大陸の果てまで辿りついたときに全身を駆け巡るのが、

異郷の地が醸成する独特のまつわりつくような疲労感である一方で、

取っ手の真の形に気づいたときの報酬はカッシーラー的シンボルの破壊と時間を有した本当のシンボルの再生だからである。

ニーチェニヒリズムは破壊一辺倒ではなく、破壊の後にその瓦礫を再構成することを企図していた。

ニーチェ的<虚無>は潜在的に<再生>を内にはらんでいるのである。

一度人間が開拓した土地であるなら、それが荒廃しポンペイの砂に埋もれたからとて未開の地にはもどらない。開拓地は永遠に人跡を残し、地表の数層下の痕跡であれば瞬く間に再発見されることだろう。

問題は、再発見された痕跡をそっくりそのまま復元しようとすることであって、

その繰り返しは再生ではなく、再現であり、再現されたシンボルは非時間的な存在となるという点である。

再生が個々の部位の息づく音をわれわれに聞かせる一方で、

再現は死んだ魚に泳ぐふりをさせるようなものである。

再現は全力で壊したものを、もう一度最初からまったく同様に組み立てることであり、

堂々めぐりの連環から、この虚無以上の無の循環から抜け出せないでいることだ。

その状況では、コーヒーカップの取っ手は再び半円に戻ってしまう。