散文
散歩中、神社の境内に子猫を四匹みつける。
人間の赤子でも子犬でも小さい頃はかわいいものであるし、
幼さが邪気のなさと罪のない空白さを見せつけ、
大人たちはそれに魅了され、
止まって観察していると子猫がにっこりと笑いかけてくる、
というわけではないのに人間のほうは相好をくずすように無意識が働くのだ、
とフロイト先生が言ったわけでもない、
のにも関わらず緊張がほぐされるのは、
猫が神的なオーラを秘めた動物だからである。
ベンヤミンは、芸術作品は最初見たときに最大の感動を与えるのじゃ、
というアウラの概念を提起したが、
はたして。
そうすると二度目に作品を見たときは最初よりも感動が薄いということである。
現代のマスプロを指摘しているのではあるが。
いま崖から身投げしようとする絶望の人の足下に子猫がすり寄ってきて、
にゃーと鳴いたら、
その猫はいつもと同じ猫だろうか。
それでも身投げは実行されるだろうか。
おもえば都会に子猫はいるが野良犬はいない。
成長した野犬はおろか子犬もいない。
これは膳に箸が片方しか並んでないのと同じで、
カフェオレにミルクを入れ忘れるのとも等しく、
目覚まし時計が鳴らない作りになっているのと同義である。
もしこれを戦争に代喩すれば、
えー、と
それはそれはえらいことになる。
そんな都会の片隅に住む猫。
おそらく近所の人たちから餌をもらっていると思う。
その代わり人間に触らせてやる、という取引が生物の垣根を越えて成立している。
こんな神社の一角で、である。
なんとも露骨な、餌をくれたら触らせてやるよ、とは。
これが中年男と少女とのやりとりだったらえらいことである。
不思議なことに、犬と人間の間でこの取引は不首尾に終わる。
なぜなら犬は餌のあるなしにかかわらず、
人間に吠えまくるか、尻尾を振るかという選択をとる。
散歩中にいくたび見知らぬ犬に吠えまくられたことか。
もし他人同士が街角で目が合っただけで吠えまくっていたら街角戦争である。
ふつう人間は犬には吠え返さないだけの流儀を持ち合わせているが、
人間の間でこの慎み深さがまったく機能しない理由は不明。
生物の垣根のせいか。
そうではなく、むしろ人間が犬の知性を凌駕しているからだと言いたい。
簡単にいえば、犬に吠えられたところで吠え返すのも阿呆だからだ。
では、飼い犬ではなく野犬に吠えられたらどうか。
ヒモに繋がれていない犬がぐるぐる唸りつつにじり寄ってきたら脂汗ものだ。
二歩進んで三歩下がっているようではまずい。
一目散に逃げて保健所に通報するのが正しい選択。
ヒモからの解放=野性への回帰、
と見切れるのは人間の本能である。
では野犬のような男に夜の繁華街でほえまくられたらどうだろう。
正しい対処の仕方は、転進するか、こちらから尻尾を振ってみる、である。
知性は時として、犬の皮を着たソクラテスになることを要求する。
野生に知性で対峙するときは水のような柔軟性も必要である。
そして、猫と犬の間には格差について。
保健所に通報する、一目散に逃げる、
という凶暴性を喚起させる選択肢を提供するのが犬であるなら、
なぜ猫は、子猫は、お触りさせるわよ、という条件で神社の境内で養われているのか。
ということはつまり、うすうす分かっていたことだが、
家庭で飼育されるペットの代名詞ともいえるこの犬と猫は同格ではないのだ。
誰かに飼われなくても一匹でそれなりに生きていける猫、
野に放棄されると重大な生命の危機に瀕する犬。
なんともはや。
著名な文化人たちが猫を奉じて偏屈なくらい論じたてるのは、
猫の狡猾かつ憎めない可愛らしさにある。
いや、可愛さは憎むことだってできる、
可愛い人間の娘を罵倒して、あのサディスティックな快感を貪る人だっている。
なら猫の可愛さも憎めるはずだ。
悲しいかな、しかしその憎しみは、
猫よなんとも憎いやつよのう、といふ高貴なる慨歎へと脱線させられ、
ついには憎悪を抱き得ないベクトルに歪曲される。
終点のない山手線の乗りこめど、行き着く場所は常に円環のなか。
そして可愛くない猫だっている。
贔屓目に見ても可愛くない、いわゆるブサイク猫だ。
そういう猫はたしかに保険屋が年初に配るポスターのグラビア写真を飾ることはない。
だけれど、お触りいいわよ取引の対象となり、
結局いいところに落ち着くだけのしたたかさがある。
その狡知が知識人のツボを刺激するものと推察され、
猫は犬以上に知性に溢れているのかのようにもてはやされる。
はたして。
犬と猫のインテリ具合を調べるために、こういう実験をしてみてはどうだろう。
人間に、お手、をするように訓練し、
どちらがお手するようになるかという勝負である。
一見、犬に圧倒的に有利だとお思いだろう。
現に習得するのが早いのは犬に違いない。
だが、早期習得者が勝者であることを意味しないために、
ここでも猫が勝つ。
考えてみてほしい、いつまでも芸を覚えようとしない猫。
それを見てまたしても登場するあの文化人がほくそ笑む、
いわく、主人の言いなりにならないとは、猫よおまえはかわいいやつよのう。
そうじゃ、近代的な知性は<批判>を基本的な要件として有しておる。
それは何かを盲目的に追従することは、冷静に見れば、お寒いことだからであるぞよ。
猫よ、おまえはそれを知っているのだな。
という見事な出来レースぶりである。
つまり猫はインテリなのか。
否、人間がインテリにしたたているのだ。
猫の行動原理はどことなくニヒルであり、
クールかつ、好戦的ではないが噛みつくときは噛む、
人目に付かないところで昼寝をし、
餌をもらっても尻尾はふらないぜ。
という不良学園ドラマの二枚目主人公と瓜二つだ。
その突っ込み所満載の行動をしてしまうが故に、
言葉もしゃべらないのに神聖視される。
猫は知性の写し鏡であって、知そのものではなく、
白紙のご意見記入板であって、人間そのものではない。
知性、このいくらでも言い訳のつくもの。
人間の赤子でも子犬でも小さい頃はかわいいものであるし、
幼さが邪気のなさと罪のない空白さを見せつけ、
大人たちはそれに魅了され、
止まって観察していると子猫がにっこりと笑いかけてくる、
というわけではないのに人間のほうは相好をくずすように無意識が働くのだ、
とフロイト先生が言ったわけでもない、
のにも関わらず緊張がほぐされるのは、
猫が神的なオーラを秘めた動物だからである。
ベンヤミンは、芸術作品は最初見たときに最大の感動を与えるのじゃ、
というアウラの概念を提起したが、
はたして。
そうすると二度目に作品を見たときは最初よりも感動が薄いということである。
現代のマスプロを指摘しているのではあるが。
いま崖から身投げしようとする絶望の人の足下に子猫がすり寄ってきて、
にゃーと鳴いたら、
その猫はいつもと同じ猫だろうか。
それでも身投げは実行されるだろうか。
おもえば都会に子猫はいるが野良犬はいない。
成長した野犬はおろか子犬もいない。
これは膳に箸が片方しか並んでないのと同じで、
カフェオレにミルクを入れ忘れるのとも等しく、
目覚まし時計が鳴らない作りになっているのと同義である。
もしこれを戦争に代喩すれば、
えー、と
それはそれはえらいことになる。
そんな都会の片隅に住む猫。
おそらく近所の人たちから餌をもらっていると思う。
その代わり人間に触らせてやる、という取引が生物の垣根を越えて成立している。
こんな神社の一角で、である。
なんとも露骨な、餌をくれたら触らせてやるよ、とは。
これが中年男と少女とのやりとりだったらえらいことである。
不思議なことに、犬と人間の間でこの取引は不首尾に終わる。
なぜなら犬は餌のあるなしにかかわらず、
人間に吠えまくるか、尻尾を振るかという選択をとる。
散歩中にいくたび見知らぬ犬に吠えまくられたことか。
もし他人同士が街角で目が合っただけで吠えまくっていたら街角戦争である。
ふつう人間は犬には吠え返さないだけの流儀を持ち合わせているが、
人間の間でこの慎み深さがまったく機能しない理由は不明。
生物の垣根のせいか。
そうではなく、むしろ人間が犬の知性を凌駕しているからだと言いたい。
簡単にいえば、犬に吠えられたところで吠え返すのも阿呆だからだ。
では、飼い犬ではなく野犬に吠えられたらどうか。
ヒモに繋がれていない犬がぐるぐる唸りつつにじり寄ってきたら脂汗ものだ。
二歩進んで三歩下がっているようではまずい。
一目散に逃げて保健所に通報するのが正しい選択。
ヒモからの解放=野性への回帰、
と見切れるのは人間の本能である。
では野犬のような男に夜の繁華街でほえまくられたらどうだろう。
正しい対処の仕方は、転進するか、こちらから尻尾を振ってみる、である。
知性は時として、犬の皮を着たソクラテスになることを要求する。
野生に知性で対峙するときは水のような柔軟性も必要である。
そして、猫と犬の間には格差について。
保健所に通報する、一目散に逃げる、
という凶暴性を喚起させる選択肢を提供するのが犬であるなら、
なぜ猫は、子猫は、お触りさせるわよ、という条件で神社の境内で養われているのか。
ということはつまり、うすうす分かっていたことだが、
家庭で飼育されるペットの代名詞ともいえるこの犬と猫は同格ではないのだ。
誰かに飼われなくても一匹でそれなりに生きていける猫、
野に放棄されると重大な生命の危機に瀕する犬。
なんともはや。
著名な文化人たちが猫を奉じて偏屈なくらい論じたてるのは、
猫の狡猾かつ憎めない可愛らしさにある。
いや、可愛さは憎むことだってできる、
可愛い人間の娘を罵倒して、あのサディスティックな快感を貪る人だっている。
なら猫の可愛さも憎めるはずだ。
悲しいかな、しかしその憎しみは、
猫よなんとも憎いやつよのう、といふ高貴なる慨歎へと脱線させられ、
ついには憎悪を抱き得ないベクトルに歪曲される。
終点のない山手線の乗りこめど、行き着く場所は常に円環のなか。
そして可愛くない猫だっている。
贔屓目に見ても可愛くない、いわゆるブサイク猫だ。
そういう猫はたしかに保険屋が年初に配るポスターのグラビア写真を飾ることはない。
だけれど、お触りいいわよ取引の対象となり、
結局いいところに落ち着くだけのしたたかさがある。
その狡知が知識人のツボを刺激するものと推察され、
猫は犬以上に知性に溢れているのかのようにもてはやされる。
はたして。
犬と猫のインテリ具合を調べるために、こういう実験をしてみてはどうだろう。
人間に、お手、をするように訓練し、
どちらがお手するようになるかという勝負である。
一見、犬に圧倒的に有利だとお思いだろう。
現に習得するのが早いのは犬に違いない。
だが、早期習得者が勝者であることを意味しないために、
ここでも猫が勝つ。
考えてみてほしい、いつまでも芸を覚えようとしない猫。
それを見てまたしても登場するあの文化人がほくそ笑む、
いわく、主人の言いなりにならないとは、猫よおまえはかわいいやつよのう。
そうじゃ、近代的な知性は<批判>を基本的な要件として有しておる。
それは何かを盲目的に追従することは、冷静に見れば、お寒いことだからであるぞよ。
猫よ、おまえはそれを知っているのだな。
という見事な出来レースぶりである。
つまり猫はインテリなのか。
否、人間がインテリにしたたているのだ。
猫の行動原理はどことなくニヒルであり、
クールかつ、好戦的ではないが噛みつくときは噛む、
人目に付かないところで昼寝をし、
餌をもらっても尻尾はふらないぜ。
という不良学園ドラマの二枚目主人公と瓜二つだ。
その突っ込み所満載の行動をしてしまうが故に、
言葉もしゃべらないのに神聖視される。
猫は知性の写し鏡であって、知そのものではなく、
白紙のご意見記入板であって、人間そのものではない。
知性、このいくらでも言い訳のつくもの。