バタイユの書→連関→存在の願望

図書館から『エロティシズム』を借りて居る。

ジョルジュ・バタイユの著書だが、これに関して困ったことがひとつある。

それは、その図書館では本を貸し出す毎に感熱紙の伝票が発行する決まりがあるが、

その紙上に著者の名前が記載されていないことだ。

司書は貸出カウンターに於いて手続きをする時分に、

現在吾人が借りている図書目録を総じて一瞥する機会がある。

感熱紙に目録内容がすべて列挙され、かつ、

手続きに使用するパソコンのスクリーンでも確認ができる、という仕組みなのだ。

その目録の中途に"エロティシズム"の文字が躍る。

他の漢字を用いた書題名のなかにあることにより更に際立つ片仮名の書名、

それが"エロティシズム"であれば、赤面するのもありうべきこととなる。

そこには著者の名前その他一切の情報がこれ記載されておらぬ。

司書は題名ののみを見、その図書の内容を慮るからくりと相成る。

加えて、彼(か)の司書の探偵業の手がかりとなるのは、ただ吾人の容貌のみであり、

予の特徴を端的に描写いたせば、

慇懃でこそあれ何か平常ならぬこと裡に秘める壮年男性の風貌で候。

その司書の一瞬の探偵的思索の後に、再び吾人が顔を一瞥する刹那、

予もまた彼(か)の顔相に平生ならぬ歪みをその口端に僅少認めるのである。

その胸奥にある本心、いかなるものか知らん。

探偵業の成果が笑止なるものであれば、無知なる者よ、大いに笑うがよい。

われの精神の昂揚はその卑賤なる心底のおかしみをもってしては、寸分衰えぬぞ。








というのは、一寸考えたことだ。

いやむしろ、こちらのほうこそ空想に耽っている張本人なのかもしれない。

その非生産的な白昼夢はなんの価値も有さない。

しかし、名前も知らぬ人物に自分が巷間噂されていると感得するのは、

人間精神の常であり、

はしなくも、心奥では多数が望んでいることなのではなかろうか。

我が家の敷居の侵入されたくはなくとも、

自分はこの町に住んでいるということを誰かに知ってもらいたいということ、

来客は歓迎せずとも、手紙での交流には積極であるということ、

その胸中の静かな願望は、自分は意識されていたい、といったものである。

たとえ社会や自分以外の人間を嫌悪している人がいたとしても、だからといって、

まったく他人との接触のない生活を実現することも出来ず、

臆病や、寂しがりというわけでもないのに、

斯の人物は心根において誰かと連関することを欲している。




それは、自分のお骨が将来納められるであろう一族の墓石を顧みたとき、

自分が世に存在した証(あかし)が、ただそこに刻まれた名前でのみ表現されているのを恐怖するようなものである。

それは、この肢体や血が、知性が、記憶が、その刻み字の中にすべて吸い込まれてしまい、

そこから永久に脱却することもないような静的な黄泉の世界を想像するようなものである。

それは、されば他人とのつながりを現生に求め、有形、無形とを問わず、

自らが存在したことを一寸でも世に残しておきたいと思う願望でもある。

そして、ひょっとするとそれは、

生命に原初から存在する内なる魂の炎の所為なのかもしれない。