塾講師

先日京都で塾講師が生徒を殺害するという事件が起きた。
荻野裕容疑者は「生徒を中学校に合格させてやりたかった」という。
それは塾講師の誰もが持っている心情である。
なぜ彼が教え子を殺すまでに至ったか。
その理由は決して単純なものではない。


私も塾講師のバイトをしていたことがある。
小・中学生を主に担当していた。
教えていたのも国語や英語の文型科目だったので、容疑者の萩野裕と共通点はある。
私の経験から言えば、確かに小学生は良い意味でも悪い意味でも無邪気であるといえる。
思ったことはすぐに口に出でくる。
授業がつまらなければつまらないと言い、授業の合間の休み時間が短いと文句は噴出する。
無邪気さゆえ、人を傷付けるようなことを言うのもいとわない。
容疑者は「以前から気持ち悪いと言われおり、彼女が自分の授業を受けないことも不満だった」という。
亡くなった女児がどの程度、容疑者に辛らつな言葉を使ったかは分からない。
しかし10歳や12歳の無邪気さは許容しなければならない。


塾講師の仕事、それは生徒を自主的に勉強させることである。
学校の授業だけでは不十分と考えて、父母は子供たちを学習塾に通わせる。
しかし塾に通っても通わなくても勉強しない子供は伸びない。
私の受け持った学生でも、塾に来るだけで全く勉強する気がない者たちはいた。
そのような学生を勉強に向かわせる指導力があるかが、塾講師が問われるものなのである。
その能力が講師の学力と合わせて必要とされる「質」なのだ。
例えば、生徒に対して怒ることも必要である。
その結果生徒が泣いてしまってもそれがその子のためであるならば、と信じなければならない。
そして今勉強しないと将来自分がどんなに苦労するか、きちんと説明する必要もある。


しかし受験した上での「将来像」が必ずしも小学六年生に見えているものではない。
中学受験をする意図を理解している小学生はいるのだろうか。
それは受験者本人よりも保護者の意向に寄るところが大きい。
「学歴社会における中学受験の意味」を説明したところで、理解してもらえるかは疑問だ。
小学生に対する指導は大学受験を控えた高校生を指南するよりもはるかに難題なのである。


子供たちの気持ちを和ませる方法や上手な怒りかたを知っていたら苦労はしない。
面白い先生には純粋に子供たちの人望も集まる。
その資質をもっているかは講師の偏差値とは別の次元の問題である。
塾講師とは馬の鼻の方向を決める馬子なのだ。